こころパン

私は口からのパンだけでは生きられない。心にもパンが欲しい。

主は生きておられる

王は誓って言った。「主は生きておられる。主は私のたましいをあらゆる苦難から贖い出してくださった。」
列王記 第一 1章29節

 

ダビデ王の晩年の言葉。しかし昔を懐かしむ言葉ではない。

このあと彼はアドニヤの反乱など意に返さず、毅然として、主のご計画どおりソロモンを王位に据える。

ダビデは、人生の全てにおいて、主が自分をどれだけ助けてくださったのか体験してきた。

それは彼の最後の力ともなった。

主の戦い

「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。(第一サムエル17章39節)

 

ダビデはゴリヤテとの一騎打ちのために、王に着せられた兜や鎧を脱いだ。

最新の防具と武器を選ばず、「神の守りがあるから大丈夫」と言わず、普段の羊飼いの形で戦うことを自ら選ぶ。

武器はいつも手にしている石投げのみ。これが彼の最高の武器だ。

この戦いは主の戦いだ。

 

 

あなたの代わりはいない

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」
ヤコブの手紙 4章8節

神の前に静まろう。

神はあなたが時間を取って向き合うことを待っておられる。

あなたの代わりはいない。

現実逃避

【主】に私は身を避ける。
どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。
「鳥のように、 おまえたちの山に飛んで行け。
(Psalms 11:1 SHINKAI)

「主に身を避ける」。これって現実逃避?
いや
「鳥のように自分たちの山に飛んで行く」
これこそ、現実逃避。
それは、自分で考えた自分の「安全」に身を寄せること。

見て見ぬ振り、触らぬ神に祟りなし。
何もしない、関わらない、知らないふりをする。
それこそ私の安全?

じゃないだろう。

「ひきょう者にならないで、わたしに付いてきなさい」と主は言われる。
そうやって信仰者は主の側に身を寄せる。

そういう者に、私はなりたいなァ。

マネージャーはいらない。

突然ですが、私はAppleMusicを利用しています。

最新の曲や、欧米の讃美歌が結構聴けるので重宝しています。

 

が、

 

どうも気に入らない。

私はこの音楽ストリーミングサービスをうまく利用しながら気に入らない。

音楽の作り手と聴き手との間に「マネージャー」が入ってくる。

この「マネージャー」は契約を止めれば、聴いている曲を根こそぎ持ち去ってしまう。

作る者と聴く者との本質的な関係が、そこにはない。

 

ではその「本質的な関係」とは何んだろう?

単に売る側と買う側の関係?それは違うと思う。

作り手のが送り出す世界を、私が受け止め、浸る。そこに活力、癒し、慰め、励まし、解放、啓蒙が生まれる。私はそれを望んでいる。

ならば「マネージャー」が仲介しても構わないはずだが。

 

でもこいつはけっこうな権力を持っていて、彼の都合によって曲がいつでも持ち去られてしまう漠然とした「不安定さ」を私に与える。

iPhoneにDLしても、いつのまにか雲マークになっている苛立ち。そしてまた取り返すことの繰り返し。

世界が配信されてはこっそり持ち逃げされる。

このマネージャーは世界が「あなたのものではない」という現実を繰り返し突きつける。その世界の所有権は、あなたには無いという現実を繰り返し突きつける。

私が契約したいのは「マネージャー」とではなく、作り手とである。どっか行けよマネージャー。

 

そもそもあの雲マークは一体何なのだ。脅しか。