こころパン

私は口からのパンだけでは生きられない。心にもパンが欲しい。

神は愛、私の愛は空。

“私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。 愛のうちにいる者は神のうちにおり、 神もその人のうちにおられます。”
(1 John 4:16 SHINKAI)
 
主イエスは私たちを助けるために、自らのいのちを犠牲にされた。
父なる神が人類に下す刑罰を、御子キリストが身代わりとなって受けられた。
キリストは、卑しい一人の罪人として処刑された。
主イエスは十字架で神に見捨てられ、息を引き取り、私たちは刑を免れた。
 
主イエスは死体となって墓に葬られた。三日間、死は彼を包んだ。
 
しかし、三日後に主イエスはからだをもって、死からよみがえられた。
私たちが刑を免れるだけでなく、私たちが神の子として再出発するために。
そしてその新しく生きる者は、死にも勝利する神の力を得ていることを示すために。
 
これらの出来事のうちに、神が愛であることが示されている。
「神は愛です」だから私たちは生きている。
 
私はこの方の愛がほしい。とてもほしい。もっともっと気前よく分けてほしい。注いでほしい。
なぜなら、私の愛は空っぽだからだ。

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イエスがそのような生き方をされたから。

…もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。
 (Gen 13:9c )
 
 
私たちは権利を持っている。
自分のために、自分が生きたい道を生きることができる。
自分が得たいものを努力して掴むこともできる。
右にいくと主張することもできるし、左はいやだとごねることもできる。
 
さらに、こういうこともできる。
つかんだものををあえて手放す。愛する者たちが生きるために。
自主的に、自分から身を引く。関係を壊さないために。愛する人を守るために。
あなたが左に行くなら、ぼくは右にするよ、と相手を優先することもできる。
自分が損をする道をあえて選ぶことがある。
 
それは、自分の気が弱いからではない。
周りへの気遣いでもない。
 
エスがそのような生き方をされたから。
エスが十字架に歩まれたのは、まさに自分のための道ではなく、神のための道を選んだからだ。
そしてその選択は、今、世界で20億人の人生を救っている。

 

写真:教会から歩いて10分ほどの遊歩道。吊り橋もある。f:id:Yattomo:20171010134536p:plain

 

キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

“あなたのみことばは、 よく練られていて、
あなたのしもべは、 それを愛しています。”
(Psalms 119:140 SHINKAI)
 
きょう、新しい聖書「新改訳聖書2017」が教会に到着した。
実に、今の聖書(新改訳第三版)のおおよそ95%の節に何らかの改訳があるそうだ。
まさにiOS95ぐらいのアップデート聖書!
 
聖書は神のことば。それは永遠の真理であって決して変わることはない。
ではどうして「新しい翻訳」が出版されるのだろう。
前のは違っていたのかな。
 
そうじゃないんだ。
神のことばは、純度の高い金のように精錬されている。
私たちはこのことばに驚き、魅せられ、愛するようになる。
その真理、隠されている神さまのご計画、イエスさまの愛の深さと広さをもっとわかりやすく、さらに適切な日本語で読みたくないかい?
 
私たちはもっともっと知りたいのさ。
エスさまの愛と、神さまのご計画。
そして私たちがもっと喜んで神に従えるように、私は聖書を読む。

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求めているのは、あなた自身です。

“ 私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。”
(2 Corinthians 12:14 SHINKAI)
 
神学校時代、伝道実習のために神学生4人で四国へ行ったんだ。

そこでとってもよい学びをさせてもらってので、感謝して献金をした。

 
ところがその献金がお土産と一緒に戻って来た。牧師からの手紙も一緒だった。
その手紙に書かれていた聖書の言葉が↑だった。
みんな泣いた。
その手紙は、本当に私たちの失敗だらけ、わがままだらけの奉仕を心から喜んでくださった、という思いに溢れていた。
 
今日はとても良いことを思い出した。
私もまた、イエスさまのための皆の奉仕は、とにかく喜ぼう。感謝しよう。

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生きているイエスを見よ。

“もしわたしが、 わたしの父のみわざを行っていないのなら、 わたしを信じないでいなさい。しかし、 もし行っているなら、 たといわたしの言うことが信じられなくても、 わざを信用しなさい。 それは、 父がわたしにおられ、 わたしが父にいることを、 あなたがたが悟り、 また知るためです。 」”
(John 10:37–38 SHINKAI)
 
 
信仰が口先だけのことだったら、とても空しい。見よ、その信仰は死んでいる。
キリストは、何を語らずとも、その人の行いによって信仰を示しなさい、と言われる。
 
「わたしが口先だけならば、わたしを信用する必要はないね。
でも仮にわたしの言葉が信用できなくても、わたしが何をしてるか、それをしっかり見て欲しい。
そうすれば、わたしが父なる神さまと完全にいっしょに歩んでいることがわかりますよ」。
 
口先無責任男の私も、よそ見をせずに、しっかりと見よ。
自我を屈服させて、キリストと完全に一つになれるときを待ち望んでいる。
 
写真:このよそ見をしている機関車は誰だっけ?

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行きたくない。

“  アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
「立って、 あの大きな町ニネベに行き、 これに向かって叫べ。 彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。 」
しかしヨナは、 主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、 立って、 ヨッパに下った。”
(Jonah 1:1–3 SHINKAI)
 
ヨナは、ニネベに行きたくない。行きたくない。
ニネベにだけは、行きたくない。
さあ、船に乗ってタルシシュに逃げよう。
 
試験が近くなると急に「本」が読みたくなる。
役に立つとは思えない暗記ものよりも、よっぽど良いことではないか。
さあ、カバンに本を積めて、スタバに行こう。
 
タルシシュは天国、スタバは楽園。
いやなことから、逃げて逃げて、逃げまくろう。
 
でもヨナは海に放り込まれた挙句に、大きなさかなに飲み込まれ、結局ニネベに行きました。
あなたは逃げ切れるかな。
 
写真:タルシシュ行きの水陸両用バスです。(行き先はうそです)

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自由に、自分から進んで。

“しかし、 御霊の実は、 愛、 喜び、 平安、 寛容、 親切、 善意、 誠実、柔和、自制です。 このようなものを禁ずる律法はありません。”
(Galatians 5:22–23 SHINKAI)
 
私の愛や喜びにはこんな動機が混じっていることがある。
 
人々から尊敬されるので、私は愛ある行動を表す。
皆に気を使って私も喜ぶ。
誰とも関わりを持たないときに、私には平安がある。
私が寛容なのは、自分の考えがないからだとバレるのが怖い。
賞賛という褒美を狙って、私は人に親切をする。
悪意には制裁があるので、私は善意を表す。
強制力があって、私はやっと誠実になる。
柔和に人と接すれば、人格者だと言われる。
自制はストレスだが、私は自制を働かせる。
 
欲しいもの。
誰にも命令されず、それは校則にも法律にも命令されず、
親からも、教師からも強制されず、
罰が怖いので仕方なくでもなく、
私は自由に、自分の意思で、御霊の力によって、これを行う者となりたい。
自分から進んで、神を喜ばせたいと願いつつ、この聖霊によって歩む。
 
そうのようになりたいのなら、人はキリストのもとに来て、彼の助けを借りなければなりません。

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