私のほんとうの笑顔
わがたましいよ。なぜ、 おまえはうなだれているのか。
なぜ、 私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
私の顔の救い、 私の神を。”
(Psalms 42:11 SHINKAI)
昨夜の「しゃべくり」で、人生のポジティブ感、ネガティブ感は顔に出ると言っていた。
そう、実は「救い」は顔に出る。
「私の顔の救い」って言っているだろう?
あなたは今どんな顔をしてるかな。
心が乱れているかもしれない。
何も喜びがわいてこない日々かもしれない
まさに「救われない顔」かもしれない。
自分の心に呼びかけてみよう。
「何やってんだよ、何をパニクっているんだよ。
作り笑いなんかやめて、神を賛美しようよ。
神さまの救いはもう来ている。
待ち望め。私のほんとうの笑顔を」
写真:2017夏の思い出、自分たちの写真を出すのはどうかと思うが。
退屈のない世界。
“善を行うのに飽いてはいけません。 失望せずにいれば、 時期が来て、 刈り取ることになります。”
(Galatians 6:9 SHINKAI)
いつものと同じような毎日、学校、教会。
感動がない、あーあ、退屈。
そう思ってしまう時、それはとっても大切なことを忘れかけている証拠。
それを救うのは、キリストの愛。
キリストはあなたのいのちのために、
神の子なのに、望まれないでこの世に生まれ、
本当の自分を理解してもらえないことを知っていて、仲間と過ごし、
誤解されて、がっかりされて、軽蔑された。
良いことだけしたのに「のけ者」にされ、
悪いことは何もしていないのに「罰せられ」、
大切な人たちに裏切られた。
キリストが十字架でいのちをささげたのは、私たちが本当のいのちに生きるため。
あなたへの罰をぜんぶかぶって、あなたを新しいいのちに生かすため。
心も考え方も喜びも、新しくするため。
それが知らされれば、退屈なんて、世界にはない。
写真:夏の思い出2017「吹奏楽の青春」
聖なる片思い
“私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。”
(1 John 4:10 SHINKAI)
片思いの切なさ、私はもう忘れている。しかし、思い出してみる。
しっかり思い出す。
遠くから見るしかない。
近づいても話しかけられない。
軽くあしらわれる。
私はこんなに注目しているのに、あなたはこっちを見てくれない。
今で言えばストーカーかも。
神さまも同じ。
私には神さまが見えない。
しかし神さまはいつも私を見てくれている。私を守り、励ます。
しかし私は気がつかない。
偉大な、聖なる片思い。
私が先に愛したのではない。私が選んだのではない。
神が先に愛してくださり、私を選んだ。
写真:夏の思い出3「島猫」
愛は学ぶもの。
“私は祈っています。 あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、 いよいよ豊かになり、あなたがたが、 真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。”
(Philippians 1:9–10 SHINKAI)
あなたの「愛」が豊かになるためにはどうしたらいいだろうか?
多くの人に親切にする?
友達ともっと深い話をする?
今日のみことばが言うのは「愛は学ぶもの」だと言うこと。
ではどうやって学ぶ?
多くの偉人から?
最近付き合い始めた人から?
それとも、自分の心の奥深くを探る?つまり自分から学ぶ?
のでもない。
あなたの「愛」が豊かになるために、あなたはイエス・キリストのことばから学ぶのです。