考えてみれば、なんと素晴らしき世界。
「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。
けれども、神が彼らを養っていてくださいます。
あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」 (Luk 12:24 )
あなたは、おなかがすいて墜落してしまった鳥を見たことはありますか?
私はありません。
ここにごはんがなければ、他のところへ探しに行くでしょう。
神がくださった翼を羽ばたかせて。
見つかることを何も疑わずに。
地は神の恵みで満ち溢れています。
私たちは鳥よりも多くの恵みを与えられ。見つけ出す者ではありませんか。
現金、カードでは買えない。
“「どんな貪欲にも注意して、 よく警戒しなさい。 なぜなら、 いくら豊かな人でも、 その人のいのちは財産にあるのではないからです。 」”
(Luke 12:15 SHINKAI)
(Luke 12:15 SHINKAI)
本当の「豊かさ」ってお金がたくさんあることではないって、考えたことがありますか?
決して貧しい人の負け惜しみではありません。
神さまに従う喜びの日々。
イエスさまから慰められ力を与えられる勝利の体験。
主の御霊が、真理を悟らせてくださったあの瞬間。
そのような喜びをたくさん経験した人は「神のみ前に」富む者です。(ルカ12:21)
それが本当の「豊かさ」です。
それはお金では買うことはできません。もちろんカードでも。
アマゾンでも売っていません。
私は「良い地」になる。
<聖書のことば>
Luke 8:8 また、 別の種は良い地に落ち、 生え出て、 百倍の実を結んだ。 」
Luke 8:15 しかし、 良い地に落ちるとは、 こういう人たちのことです。 正しい、 良い心でみことばを聞くと、 それをしっかりと守り、 よく耐えて、 実を結ばせるのです。
<私のことば>
私は、みことばのことはいつも後回しにしてきた。
私は岩の上にいて、嫌なことがあれば、すぐ逃げ出してしまう者だと思っていた。
そしていばらの中で、失敗への不安、ダサく見られる恐怖、そしてひとりぼっちを恐れる者だった。
信仰がその生き方に表れていない人の信仰は信じない。
その言葉は正しい。
信仰の実を結ばせるように求められているのは、私自身だ。
私が「良い地」になる。
みんな悩んで、大きくなる。
<聖書のことば>
Luke 8:7 また、 別の種はいばらの真ん中に落ちた。 ところが、 いばらもいっしょに生え出て、 それを押しふさいでしまった。
Luke 8:14 いばらの中に落ちるとは、 こういう人たちのことです。 みことばを聞きはしたが、 とかくしているうちに、 この世の心づかいや、 富や、 快楽によってふさがれて、 実が熟するまでにならないのです。
<牧師のコメント>
ある高校生の言葉
「イエスさまがいつも一緒だから、一人でも大丈夫。」
なんて、言えるわけがない。
学校で一人は無理、自分の居場所を作らなきゃやっていけない。
日曜日に誘われると、とても苦しい。
礼拝が、待ってるのに。
あるサラリーマンの言葉。
綺麗事でお金は稼げない。
仕事を取るために、競争に勝たなければ評価が下がる。
こんな社会だから、礼拝に出られないと心が「死ぬ」。
でも取引先は、次の日曜に見積もりを持って来いという。
悩まない人はいない。苦しまない人はいない。
みんな、祈って、祈られて、大きくなる。
いばらの向こうに、青空が見える。
逃げるは役に立つか。
<聖書のことば>
Luke 8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
Luke 8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
注)「種」とは神の救いのみことばのことです。
<牧師からのことば>
残念だなあ。
信仰の醍醐味を一番深く味わえる時に、いなくなっちゃうなんて。
ねえ、そうだよねえ。もったいない。
512年前、稲光と火の玉に脅されて修道士になったルターという人がこう言っている。
「試練のなかに、どれほど大きな恵みが隠されているかを知るべきだからです。そのようなことを知ろうとする人は、ごくわずかです。そのためにかえって、大きな傷を負ってしまっているのです。」
試練の時に身を引くと(逃げると)かえって傷つくぞ。
逃げるは役に立たない。
覚悟を決めて、根を張って、隠された恵みを受けよう。
「神のことば」を取り返せ。
Luke 8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、 道ばたに落ちた種があった。 すると、 人に踏みつけられ、 空の鳥がそれを食べてしまった。
Luke 8:12 道ばたに落ちるとは、 こういう人たちのことです。 みことばを聞いたが、 あとから悪魔が来て、 彼らが信じて救われることのないように、 その人たちの心から、 みことばを持ち去ってしまうのです。
注)「種」とは神の救いのみことばのことです。
イエスさまのたとえ話。今日から4回連続。
多くの人に、神さまに対する「漠然とした拒絶」がある。
「神を信じること」に怖さや恥を感じている。
それで、
「世界には、『神』よりも大切なことがいくらでもある」
と避けてしまう。
この拒絶、怖さ、恥って何だろう。
たぶんそれは、「宗教は怖い」「違う自分になりそう」という恐れから出てくるのかもしれない。
その恐れを除くには、これは自分自身に対して語られている、とその人が気付くこと。
そして、みことばが作りだす、刺激的で平安な空間に浸かることだ。
持ち去られたみことばを取り返せ。
イエスさまに会えるところへ。
“ さて、 大ぜいの人の群れが集まり、 また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、 イエスはたとえを用いて話された。”
(Luke 8:4 SHINKAI)
(Luke 8:4 SHINKAI)
主イエスのところには、大勢の人が、方々の町から集まって来た。
今で言えば、ある人は自転車で、電車で、バスを乗り継いで。
ある人は青春18切符で。新幹線で。
別な人は飛行機。ある人はエコノミー、ある者はビジネスクラスで。
皆、キリストを直接見て、話を聞くためにやってくる。そのためのコストも労も惜しまずに。
教会は、そこはイエスさまがおられるところだ。
礼拝でも、人々との交わりの中でも。
だからみんな、教会へ行こう。
牧師もしっかりとお話をして、イエスさまのお姿を示していかねばね。