こころパン

私は口からのパンだけでは生きられない。心にもパンが欲しい。

本物と偽物の見分け方

聞いても実行しない人は、 土台なしで地面に家を建てた人に似ています。 川の水が押し寄せると、 家は一ぺんに倒れてしまい、 そのこわれ方はひどいものとなりました。 」”
(Luke 6:48–49 SHINKAI)

 

本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンの見分け方。
両方とも、礼拝には必ず出席する、ちゃんとみんなの前で祈れる、奉仕も一生懸命。
外からでは見分けがつかない。大差ない。両方とも本物に見える。
ではどうやって見分けるのか。

 

それは、みことばを実行しているかどうかだ。
礼拝でみことばを聞いて、それを自宅でも、学校、職場でも実行しているかだ。

 

聞いても実行していない人の信仰は、「洪水」(試練)の時にそのもろさがわかる。

 

偽物は、試練にうろたえ、悲しみ、神を呪いさえするようになる。
その変わりようはひどい。
しかし本物の信仰はビクともしない。

みことばを聞いて、
人に対して誇るためではなく、主ご自身の喜びのために、生きる。
人には見えない生活全般にまで、心の隅まで、神の民にふさわしくなりますように。

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クリスチャンの原点

“自分を愛する者を愛したからといって、 あなたがたに何の良いところがあるでしょう。 罪人たちでさえ、 自分を愛する者を愛しています。”
(Luke 6:32 SHINKAI)
 
自分を愛してくれる人を愛し、自分に良くしてくれる人に良いことをする。
「わたしの弟子ではなくても、そんなことは皆やっている」
とイエスさまはおっしゃる。
イエスさまは、自分を傷つける者を愛し、
自分に良くないことをする人に、良いことをしなさいと言われる。
 
無理無理無理
私の心は悲鳴をあげる。
当然だ。私にはそんな愛も力もない。あるもんか。
そんな愛などいらないとさえ思う。
 
ただこのことを聖書から思い巡らしてみなさい。
そうすればすぐに心に愛が溢れる、なんてことは今は言わない。
でも、私たちはすべて、いつもここから始めなければならない。
 
私は、イエスさまの十字架を余計なお世話と思い、
和解の手に噛みつき、
与えようとされたものを地面に叩き落とした。
父なる神はあなたの悪さに怒り新党だった。
 
しかし
主イエスが私の代わりに神の罰を受けてくださった。十字架で。
このイエスさまを救い主と信じた私は神の子となった。
 
今思うことは、
愛さなかった時、イエスさまは私を愛してくださった。命がけで。
拒んでいた時、イエスさまは私を受け入れてくださった。何事もなかったように。
奪っていた時に、イエスさまは私に与えてくださった。とても気前よく。
だから今の私がいる。
 

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やってみる

“話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、 網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。 私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。 」”
(Luke 5:4–5 SHINKAI)
 
 
「あ、それ無理」「ムダだよ」「だるい」「疲れてるので」「予定があるので」
 
でも「おことばどおり、網をおろして」みたら、なんと大漁だった。
 
自分自身はムダだと思っても、主イエスが言われれるならば、それをやってみよう。
 
やってみて人生が変わった「シモン」は世界中にいる。

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「わがはいは『それ』である」

“「キリスト・イエスは、 罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、 まことであり、 そのまま受け入れるに値するものです。 私はその罪人のかしらです。”
(1 Timothy 1:15 SHINKAI)
 
92歳でクリスチャンの奥さまを天に送られ、95歳で信仰を告白し、97歳で洗礼を受けられ、100歳で天に召された方の葬儀に出席した。
お生まれになったのは、第一次世界大戦中だ。二次ではなく、一次だ。
その人は「あなたはご自分が罪人であることを告白しますか」と問われた時、病床でこう告白したそうである。
 
「わがはいは『それ』である」  (注:「わがはい」(吾輩)=「私」)
 
自分が罪人であることの明確な断言。
肉のいのちの厳粛なる否定。
たとえ1000年生きて努力しても、決して超えることのできない人間の真実。
 
しかしその告白は「キリスト・イエスは、 罪人を救うためにこの世に来られた」というみことばを土台とする。
 
キリストのみが、罪人を永遠に生かす。
究極的に私たちの人格は、キリストによってのみ造られ、永遠に失われることはない。
 

「彼」の後に続け!

“わたしは門です。 だれでも、 わたしを通って入るなら、 救われます。 また安らかに出入りし、 牧草を見つけます。”
(John 10:9 SHINKAI)
 
※「わたし」=イエス・キリスト
 
正面の「門」から入ってくるのは誰だ。
柵を乗り越えて入ってくるのは、強盗だ。
裏口から入るのは、泥棒だ。
真の羊飼いだけが正面の門から入ってくる。
 
あなたは、その羊飼いに続いてその門に入る。
どんなに狭くとも、見つけにくくとも、その羊飼いがいれば大丈夫だ。
彼の後に続け。
彼の後に続け。

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みことばがかり

“みことばを宣べ伝えなさい。 時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。 寛容を尽くし、 絶えず教えながら、 責め、 戒め、 また勧めなさい。”
(2 Timothy 4:2 SHINKAI)
 
教会には、実はいろんな委員や係りがあります。
伝道委員、交わり委員、聖餐係など、教会によって名前は違いますが色々あります。
 
牧師は「みことばがかり」です。
 
係の務めはしっかりやらなくてはいけません。
神さまの愛によって、あなたが変えられるように、
あなたがみことばを信じて行うことができるように、
神さまを賛美する力が豊かに与えられるように、
牧師は皆さんを「放牧」しながら、聖書を武器に、いろんな助けをします。
 
ぜひご利用ください。

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隣人ファースト

“イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。 それは反キリストの霊です。 あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、 今それが世に来ているのです。”
(1 John 4:3 SHINKAI)
 
 「あなたが幸せにならなければ、私も幸せにはなれない」と共に困難を乗り越えて歩もうとする人は、「隣人ファースト」の人だ。こういう考えと行動には、困難はあるが、賛成できる。
 
「自分だけが幸せになればいい、他の人には関心がない」という人は「自分ファースト」の人だ。それはちょっと賛成できない。
その人がそのまま政治家になったならばその人は「反キリスト」にとても近い。
 
彼はいつの時代にも、今現在でもこの世界に来ていることを忘れてはならない。
 
「隣人ファースト」の人を見分ける目を、神さまからいただこう。f:id:Yattomo:20161205152247j:plain