私が逃げても、捕まえてくださいますか。
病気したり、傷ついたり、勝手に悲しんだり、弱い自分を見る時、
私は、困難を乗り越えられず、道を切り開けず、生きる自信すらない。
そういう状態の私に、イエスさまは言うのだ。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9 )
誇れないですよ。
私は身も心も小さくなり、今にもなくなってしないそうです。
私が逃げても、捕まえてくださいますか。
すでに十分であるという、あなたの恵みを見せてくださいますか。
弱いままで前進できると保証してくださいますか。
あなたの力で早くおおってください。わたしを。
神を「見る」方法。
「ところが、見聞きしているように、あのパウロが、手で造った物は神ではないと言って、エペソだけでなく、アジアのほぼ全域にわたって、大勢の人々を説き伏せ、迷わせてしまいました。」使徒の働き19章26節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
話しているのはエペソという町の銀細工職人。彼らは神殿の模型を造って生計を立てていた。そこにキリストの使徒パウロが来て、
「手で造った物は神ではない」
と人々に教えた。
職人たちは怒った。商品を買ってもらえなくなれば商売ができない。
偶像礼拝(神ではないものを神のように崇める行為)は、少なからず利権と絡んでいる良い例だ。
神の本質(変わることのない本来の性質のこと)は、物質にはない。
それは決して目には見えない。つかめず、触れない。
でも、人間は目に見えなければ不安だ。
どうやって、目に見えない本当の神の心に「触れる」ことができるのか。
それは「ことば」によってだ。
「ことば」の力をあなたはよく知っているだろう。こんなブログまで読むのだから。
聖書のことばによって、私たちは神を見る(理解する)。力を与えられ、平安をいただく。
お守りやパワーストーンで「安心」を買っている人には余計なお世話だろうが、本来は「気休め」であることを自覚なさっているならば、ぜひ聖書を読んでほしい。
僕はいやだ。
今回大不評と言われている「スターウォーズ・最後のジェダイ」。
このシリーズのテーマは勧善懲悪(善を勧めて悪を懲らしめる)で一貫していた。
でも今回は「善と悪」という言葉が影を潜めて「光と闇」というイメージに置き換わっているという。
聖書の中では「光と闇」は間違いなく「善と悪」を象徴するイメージだろう。
でも、なんかそうともいえなくなってくるのがこのシリーズの映画。
まず第一に、共和国側も帝国軍側もどっちもどっちということだ。スピンオフの映画「ローグワン」の主人公ジンに言わせれば、それぞれの義を振りかざしているだけだと。彼女はどちらも信用せず、ただ父の愛に応えて行動する。
第二に、善を代表する正義の集団「ジェダイ」もひどい過ちを犯す。傲慢なジェダイを諌めない。仲間を信頼しない。自己過信、権威主義、評議会まかせ。最後のジェダイのルークは孤島に引きこもる。
第三には、善とか悪とか関係なく、皆自分の思い通りに行動し始めている。悪を悪として評価しないのだ。
だから、「善と悪」は「光と闇」に置き換えられ、その区別がいくらでも曖昧にされる。
結論、ディズニー化するスターウォーズ。どうしてDなんかに売ったの、ルーカスさん。
ジェダイもシスも「ありの、ままの、姿を見せるのよ♩」が一番魅力溢れるように設定されている。
僕はいやだ。
「光の住む所への道はどこか。闇のあるその場所はどこか。
光をその国境まで連れて行くというのか。闇の家に至る通りを見分けるというのか。」
ヨブ記 38章19~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会