こころパン

私は口からのパンだけでは生きられない。心にもパンが欲しい。

現金、カードでは買えない。

「どんな貪欲にも注意して、 よく警戒しなさい。 なぜなら、 いくら豊かな人でも、 その人のいのちは財産にあるのではないからです。 」
(Luke 12:15 SHINKAI)
 
本当の「豊かさ」ってお金がたくさんあることではないって、考えたことがありますか?
決して貧しい人の負け惜しみではありません。
 
神さまに従う喜びの日々。
イエスさまから慰められ力を与えられる勝利の体験。
主の御霊が、真理を悟らせてくださったあの瞬間。
 
そのような喜びをたくさん経験した人は「神のみ前に」富む者です。(ルカ12:21)
 
それが本当の「豊かさ」です。
それはお金では買うことはできません。もちろんカードでも。
アマゾンでも売っていません。

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私は「良い地」になる。

<聖書のことば>
Luke 8:8 また、 別の種は良い地に落ち、 生え出て、 百倍の実を結んだ。 」
Luke 8:15 しかし、 良い地に落ちるとは、 こういう人たちのことです。 正しい、 良い心でみことばを聞くと、 それをしっかりと守り、 よく耐えて、 実を結ばせるのです。
 
<私のことば>
私は、みことばのことはいつも後回しにしてきた。
私は岩の上にいて、嫌なことがあれば、すぐ逃げ出してしまう者だと思っていた。
そしていばらの中で、失敗への不安、ダサく見られる恐怖、そしてひとりぼっちを恐れる者だった。
 
信仰がその生き方に表れていない人の信仰は信じない。
その言葉は正しい。
 
信仰の実を結ばせるように求められているのは、私自身だ。
私が「良い地」になる。

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みんな悩んで、大きくなる。

<聖書のことば>
Luke 8:7 また、 別の種はいばらの真ん中に落ちた。 ところが、 いばらもいっしょに生え出て、 それを押しふさいでしまった。
Luke 8:14 いばらの中に落ちるとは、 こういう人たちのことです。 みことばを聞きはしたが、 とかくしているうちに、 この世の心づかいや、 富や、 快楽によってふさがれて、 実が熟するまでにならないのです。
 
<牧師のコメント>
ある高校生の言葉
「イエスさまがいつも一緒だから、一人でも大丈夫。」
なんて、言えるわけがない。
学校で一人は無理、自分の居場所を作らなきゃやっていけない。
日曜日に誘われると、とても苦しい。
礼拝が、待ってるのに。
 
あるサラリーマンの言葉。
綺麗事でお金は稼げない。
仕事を取るために、競争に勝たなければ評価が下がる。
こんな社会だから、礼拝に出られないと心が「死ぬ」。
でも取引先は、次の日曜に見積もりを持って来いという。
 
悩まない人はいない。苦しまない人はいない。
みんな、祈って、祈られて、大きくなる。
 
いばらの向こうに、青空が見える。

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逃げるは役に立つか。

<聖書のことば>

Luke 8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。

Luke 8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。

 

注)「種」とは神の救いのみことばのことです。

 

<牧師からのことば>

残念だなあ。

信仰の醍醐味を一番深く味わえる時に、いなくなっちゃうなんて。

ねえ、そうだよねえ。もったいない。

512年前、稲光と火の玉に脅されて修道士になったルターという人がこう言っている。

「試練のなかに、どれほど大きな恵みが隠されているかを知るべきだからです。そのようなことを知ろうとする人は、ごくわずかです。そのためにかえって、大きな傷を負ってしまっているのです。」

試練の時に身を引くと(逃げると)かえって傷つくぞ。

逃げるは役に立たない。

覚悟を決めて、根を張って、隠された恵みを受けよう。

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「神のことば」を取り返せ。

Luke 8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、 道ばたに落ちた種があった。 すると、 人に踏みつけられ、 空の鳥がそれを食べてしまった。
Luke 8:12 道ばたに落ちるとは、 こういう人たちのことです。 みことばを聞いたが、 あとから悪魔が来て、 彼らが信じて救われることのないように、 その人たちの心から、 みことばを持ち去ってしまうのです。
 
注)「種」とは神の救いのみことばのことです。
 
イエスさまのたとえ話。今日から4回連続。
 
多くの人に、神さまに対する「漠然とした拒絶」がある。
「神を信じること」に怖さや恥を感じている。
それで、
「世界には、『神』よりも大切なことがいくらでもある」
と避けてしまう。
 
この拒絶、怖さ、恥って何だろう。
たぶんそれは、「宗教は怖い」「違う自分になりそう」という恐れから出てくるのかもしれない。
 
その恐れを除くには、これは自分自身に対して語られている、とその人が気付くこと。
そして、みことばが作りだす、刺激的で平安な空間に浸かることだ。
 
持ち去られたみことばを取り返せ。

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イエスさまに会えるところへ。

“  さて、 大ぜいの人の群れが集まり、 また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、 イエスはたとえを用いて話された。”
(Luke 8:4 SHINKAI)
 
主イエスのところには、大勢の人が、方々の町から集まって来た。
今で言えば、ある人は自転車で、電車で、バスを乗り継いで。
ある人は青春18切符で。新幹線で。
別な人は飛行機。ある人はエコノミー、ある者はビジネスクラスで。
皆、キリストを直接見て、話を聞くためにやってくる。そのためのコストも労も惜しまずに。
 
教会は、そこはイエスさまがおられるところだ。
礼拝でも、人々との交わりの中でも。
だからみんな、教会へ行こう。
牧師もしっかりとお話をして、イエスさまのお姿を示していかねばね。

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本物と偽物の見分け方

聞いても実行しない人は、 土台なしで地面に家を建てた人に似ています。 川の水が押し寄せると、 家は一ぺんに倒れてしまい、 そのこわれ方はひどいものとなりました。 」”
(Luke 6:48–49 SHINKAI)

 

本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンの見分け方。
両方とも、礼拝には必ず出席する、ちゃんとみんなの前で祈れる、奉仕も一生懸命。
外からでは見分けがつかない。大差ない。両方とも本物に見える。
ではどうやって見分けるのか。

 

それは、みことばを実行しているかどうかだ。
礼拝でみことばを聞いて、それを自宅でも、学校、職場でも実行しているかだ。

 

聞いても実行していない人の信仰は、「洪水」(試練)の時にそのもろさがわかる。

 

偽物は、試練にうろたえ、悲しみ、神を呪いさえするようになる。
その変わりようはひどい。
しかし本物の信仰はビクともしない。

みことばを聞いて、
人に対して誇るためではなく、主ご自身の喜びのために、生きる。
人には見えない生活全般にまで、心の隅まで、神の民にふさわしくなりますように。

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