私、変わった?
「私、変わったんだ」
と言うならチェックしてみよう。
あなたはなぜ変わらなければならないと思ったのだっけ?
あなたの家柄とか、親の学歴とか、収入とか、誇っていない?
今一番の関心は何?
悪い習慣は減った?
部屋は片付いている?
これまで見過ごしていた尊いものにいくつ気が付いた?
あなたの心のベクトルは、本当のところ、どこに向いている?
「私は本当に変わったんだ」
と言える?
「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」
ルカの福音書3章8節
※「悔い改め」とは本質的に「生き方の方向転換」へと結びつく心の変化です。
私が逃げても、捕まえてくださいますか。
病気したり、傷ついたり、勝手に悲しんだり、弱い自分を見る時、
私は、困難を乗り越えられず、道を切り開けず、生きる自信すらない。
そういう状態の私に、イエスさまは言うのだ。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9 )
誇れないですよ。
私は身も心も小さくなり、今にもなくなってしないそうです。
私が逃げても、捕まえてくださいますか。
すでに十分であるという、あなたの恵みを見せてくださいますか。
弱いままで前進できると保証してくださいますか。
あなたの力で早くおおってください。わたしを。
神を「見る」方法。
「ところが、見聞きしているように、あのパウロが、手で造った物は神ではないと言って、エペソだけでなく、アジアのほぼ全域にわたって、大勢の人々を説き伏せ、迷わせてしまいました。」使徒の働き19章26節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
話しているのはエペソという町の銀細工職人。彼らは神殿の模型を造って生計を立てていた。そこにキリストの使徒パウロが来て、
「手で造った物は神ではない」
と人々に教えた。
職人たちは怒った。商品を買ってもらえなくなれば商売ができない。
偶像礼拝(神ではないものを神のように崇める行為)は、少なからず利権と絡んでいる良い例だ。
神の本質(変わることのない本来の性質のこと)は、物質にはない。
それは決して目には見えない。つかめず、触れない。
でも、人間は目に見えなければ不安だ。
どうやって、目に見えない本当の神の心に「触れる」ことができるのか。
それは「ことば」によってだ。
「ことば」の力をあなたはよく知っているだろう。こんなブログまで読むのだから。
聖書のことばによって、私たちは神を見る(理解する)。力を与えられ、平安をいただく。
お守りやパワーストーンで「安心」を買っている人には余計なお世話だろうが、本来は「気休め」であることを自覚なさっているならば、ぜひ聖書を読んでほしい。