こころパン

私は口からのパンだけでは生きられない。心にもパンが欲しい。

乱れる前に選べ。

今日、私はいくつの選択をしただろう。

そして私はいつも良いほうを選んでいるだろうか。

私はむしろ好きな方を選ぶ。

でも好きなほうがいつも「良いほう」とは限らない。

必要なことはいつでもたった一つ。

心を乱す前に、それを選べ。

 

主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

(ルカの福音書10章41、42節)

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ひとつになる。

父なる神から大切な使命を受けたイエスさま。

父なる神とひとつとなって歩む。

地上にいても、父なる神ととても親密、仲が良く、お互いを信頼し切っている。

私たちはそれを知らされた。神とイエスはひとつだ。とても深いところでひとつとなっている。

人間はどうやってひとつになるのだろう。

それは調整と妥協とタイミングの芸術。おそらく様々な不満がくすぶりながら。かたちだけは何とか整える。

教会はどうやってひとつになるのだろう。

エスが父なる神から遣わされて、愛の関係で結ばれていることにすべてのキリスト教会は同意するだろう。

しかし、神の介入がなければ、個々の教会も、世界の教会もひとつにはならない。

それは教会の祈り、福音宣教の賜物として起こってくれればとねがっているわけで。

 

"正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。"
ヨハネ福音書 17章25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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生きている「手紙」

 神は私たちの心に文字を書いてくださる。

あなた自身という便箋に、手紙を書いてくださる。

その便箋は、神にとって書きづらいものかもしれない。

でも、神は忍耐をもって確実に書き続けてくれる。

「まだまだ書き足りないことはある」

書きかけであっても、あなた自身はキリストの「生きている手紙」として、世界中に発送される。

 

"あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。"
コリント人への手紙 第二 3章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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神はすべてを良くしてくださる。

楽しい思い出が生まれることは幸せなこと。

辛い思い出は忘れたいもの。

でも、それもまた「自分が変わるために必要なことだった」と悟るのに、単に時間がかかるだけのことだ。

 

"わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。"
詩篇103篇2節)
聖書 新改訳20

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17©2017新日本聖書刊行会

 

苦しみから救われるか、苦しみの中で恵まれるか。

聖書
彼女は主人に、このように告げた。
「あなたが私たちのところに連れて来た、あのヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げました。」…
ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。
しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
(創世記39章17、18、20、21節)
 
 「彼女」とは主人ポティファルの妻。彼女の話は全くのデタラメ。
ヨセフを誘惑しようとしたのは彼女自身だ。ヨセフは無実の罪を着せられて、監獄に入れられてしまう。
なぜ神は無実なヨセフを、投獄から守らないのか。
そうではなく、なぜ監獄の中で「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し」たという寄り添い方を選ぶのだろうか。
 その答えは今日は言わない。
 ただ、あなたが信仰のゆえに理不尽な扱いを受けて苦しむなら、神は確実にあなたとともにおられて、その意味を後に悟らせてくださる。
そして、それはあなたの人生の大きな益となる。

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見たことのない神を見る。

最初に愛してくださったのは神。私たちではない。

そしてキリストが十字架で私たちの罪にために死なれた時、そこにこそ、神の愛があるとヨハネは言った(10節)。

キリスト者が互いに愛し合うとは、受け取ったその神の愛を、横に流していくこと。

そこには、いざというときの、自己犠牲を含んでいる。

 

人は愛する者のためには自分をゆずる。たとえ命さえも。

では、別に好きではない人のために、自分の命をゆずることをするか。

それがなされた時、人々は見たことのない神を見ることになる。

 

"いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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苦難の日の力

自分の本当の力量は、最大どこまで伸ばせるか、ということではない。

苦難の日にも普段と同じことができるかによる。

試験前に大失恋した時、平均点以上が取れるか。

味方の裏切りにあっても、空が青いと上を見ることができるか。

十字架にかかられても、人々の罪の赦しを最優先に考えたイエスのように。

 

「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」箴言24章10節

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