こころパン

私は口からのパンだけでは生きられない。心にもパンが欲しい。

求めているのは、あなた自身です。

“ 私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。”
(2 Corinthians 12:14 SHINKAI)
 
神学校時代、伝道実習のために神学生4人で四国へ行ったんだ。

そこでとってもよい学びをさせてもらってので、感謝して献金をした。

 
ところがその献金がお土産と一緒に戻って来た。牧師からの手紙も一緒だった。
その手紙に書かれていた聖書の言葉が↑だった。
みんな泣いた。
その手紙は、本当に私たちの失敗だらけ、わがままだらけの奉仕を心から喜んでくださった、という思いに溢れていた。
 
今日はとても良いことを思い出した。
私もまた、イエスさまのための皆の奉仕は、とにかく喜ぼう。感謝しよう。

f:id:Yattomo:20170130130613j:plain

 

生きているイエスを見よ。

“もしわたしが、 わたしの父のみわざを行っていないのなら、 わたしを信じないでいなさい。しかし、 もし行っているなら、 たといわたしの言うことが信じられなくても、 わざを信用しなさい。 それは、 父がわたしにおられ、 わたしが父にいることを、 あなたがたが悟り、 また知るためです。 」”
(John 10:37–38 SHINKAI)
 
 
信仰が口先だけのことだったら、とても空しい。見よ、その信仰は死んでいる。
キリストは、何を語らずとも、その人の行いによって信仰を示しなさい、と言われる。
 
「わたしが口先だけならば、わたしを信用する必要はないね。
でも仮にわたしの言葉が信用できなくても、わたしが何をしてるか、それをしっかり見て欲しい。
そうすれば、わたしが父なる神さまと完全にいっしょに歩んでいることがわかりますよ」。
 
口先無責任男の私も、よそ見をせずに、しっかりと見よ。
自我を屈服させて、キリストと完全に一つになれるときを待ち望んでいる。
 
写真:このよそ見をしている機関車は誰だっけ?

f:id:Yattomo:20161212182714j:plain

行きたくない。

“  アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
「立って、 あの大きな町ニネベに行き、 これに向かって叫べ。 彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。 」
しかしヨナは、 主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、 立って、 ヨッパに下った。”
(Jonah 1:1–3 SHINKAI)
 
ヨナは、ニネベに行きたくない。行きたくない。
ニネベにだけは、行きたくない。
さあ、船に乗ってタルシシュに逃げよう。
 
試験が近くなると急に「本」が読みたくなる。
役に立つとは思えない暗記ものよりも、よっぽど良いことではないか。
さあ、カバンに本を積めて、スタバに行こう。
 
タルシシュは天国、スタバは楽園。
いやなことから、逃げて逃げて、逃げまくろう。
 
でもヨナは海に放り込まれた挙句に、大きなさかなに飲み込まれ、結局ニネベに行きました。
あなたは逃げ切れるかな。
 
写真:タルシシュ行きの水陸両用バスです。(行き先はうそです)

f:id:Yattomo:20170918150857j:plain

自由に、自分から進んで。

“しかし、 御霊の実は、 愛、 喜び、 平安、 寛容、 親切、 善意、 誠実、柔和、自制です。 このようなものを禁ずる律法はありません。”
(Galatians 5:22–23 SHINKAI)
 
私の愛や喜びにはこんな動機が混じっていることがある。
 
人々から尊敬されるので、私は愛ある行動を表す。
皆に気を使って私も喜ぶ。
誰とも関わりを持たないときに、私には平安がある。
私が寛容なのは、自分の考えがないからだとバレるのが怖い。
賞賛という褒美を狙って、私は人に親切をする。
悪意には制裁があるので、私は善意を表す。
強制力があって、私はやっと誠実になる。
柔和に人と接すれば、人格者だと言われる。
自制はストレスだが、私は自制を働かせる。
 
欲しいもの。
誰にも命令されず、それは校則にも法律にも命令されず、
親からも、教師からも強制されず、
罰が怖いので仕方なくでもなく、
私は自由に、自分の意思で、御霊の力によって、これを行う者となりたい。
自分から進んで、神を喜ばせたいと願いつつ、この聖霊によって歩む。
 
そうのようになりたいのなら、人はキリストのもとに来て、彼の助けを借りなければなりません。

f:id:Yattomo:20161024131842j:plain

私のほんとうの笑顔

わがたましいよ。なぜ、 おまえはうなだれているのか。
なぜ、 私の前で思い乱れているのか。 
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。 
私の顔の救い、 私の神を。”
(Psalms 42:11 SHINKAI)
 
 
昨夜の「しゃべくり」で、人生のポジティブ感、ネガティブ感は顔に出ると言っていた。
そう、実は「救い」は顔に出る。
「私の顔の救い」って言っているだろう?
 
あなたは今どんな顔をしてるかな。
心が乱れているかもしれない。
何も喜びがわいてこない日々かもしれない
まさに「救われない顔」かもしれない。
 
自分の心に呼びかけてみよう。
「何やってんだよ、何をパニクっているんだよ。
作り笑いなんかやめて、神を賛美しようよ。
神さまの救いはもう来ている。
待ち望め。私のほんとうの笑顔を」
 
写真:2017夏の思い出、自分たちの写真を出すのはどうかと思うが。

f:id:Yattomo:20170821125149j:plain

 

 

「憎しみ」という剣

“そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。 剣を取る者はみな剣で滅びます。”
(Matthew 26:52 SHINKAI)
 
 
今、一番聞くべき言葉かもしれませんね。
武器を取って戦うなら、結局、その武器によって自らも滅びることになる。
 
あんなにひどいことを言うのだから、少し懲らしめたほうがいい。
やられてしまうより先に、やっつけてしまえばいい。
 
しかし、戦争に勝者はありません。
身体が損なわれ、心が切り裂かれるのは私たちです。
 
私たちは、屈辱や恐怖心が生む「憎しみ」の剣を、もとに納めなければなりません。

f:id:Yattomo:20160822100742j:plain

退屈のない世界。

“善を行うのに飽いてはいけません。 失望せずにいれば、 時期が来て、 刈り取ることになります。”
(Galatians 6:9 SHINKAI)
 
いつものと同じような毎日、学校、教会。
感動がない、あーあ、退屈。
 
そう思ってしまう時、それはとっても大切なことを忘れかけている証拠。
 
それを救うのは、キリストの愛。
 
キリストはあなたのいのちのために、
神の子なのに、望まれないでこの世に生まれ、
本当の自分を理解してもらえないことを知っていて、仲間と過ごし、
誤解されて、がっかりされて、軽蔑された。
 
良いことだけしたのに「のけ者」にされ、
悪いことは何もしていないのに「罰せられ」、
大切な人たちに裏切られた。
 
キリストが十字架でいのちをささげたのは、私たちが本当のいのちに生きるため。
あなたへの罰をぜんぶかぶって、あなたを新しいいのちに生かすため。
心も考え方も喜びも、新しくするため。
 
それが知らされれば、退屈なんて、世界にはない。
 
写真:夏の思い出2017「吹奏楽の青春」

f:id:Yattomo:20170824162854j:plain