こころパン

私は口からのパンだけでは生きられない。心にもパンが欲しい。

愛は学ぶもの。

“私は祈っています。 あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、 いよいよ豊かになり、あなたがたが、 真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。”
(Philippians 1:9–10 SHINKAI)
 
あなたの「愛」が豊かになるためにはどうしたらいいだろうか?
 
多くの人に親切にする?
友達ともっと深い話をする?
今日のみことばが言うのは「愛は学ぶもの」だと言うこと。
 
ではどうやって学ぶ?
多くの偉人から?
最近付き合い始めた人から?
それとも、自分の心の奥深くを探る?つまり自分から学ぶ?
のでもない。
 
あなたの「愛」が豊かになるために、あなたはイエス・キリストのことばから学ぶのです。

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ぜんぶ、失敗かもしれないけど。

主はあなたに告げられた。
人よ。 何が良いことなのか。
【主】は何をあなたに求めておられるのか。
それは、 ただ公義を行い、 誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに歩むことではないか。
旧約聖書・ミカ6章8節)
 
あなたが神さまに感謝したいのならば、どうする?
神さまが唯一望むプレゼント、それはあなた自身の心。
その心は、神が示す正しいことを行い、
思いやりのあるふるまいを愛し、
何かが人よりすごいからと言って、うぬぼれることない心。
 
そして私は、以上のこと全部失敗するかもしれないけど、神さまは私にあきれることはなく、やり直させてくださることを信じて歩んでいる。

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乾いたサンドウィッチ。

一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、  
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。”
(Proverbs 17:1 SHINKAI)
 
 
幸せなパンと、豪華でも殺伐とした食卓。
笑いながら食べる焼きそばと、会話のないフレンチフルコース。
 
私は、乾いたサンドウィッチがけっこう好きですが何か。

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1944年8月4日

「【主】をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、 全世界に知らせよ。」旧約聖書イザヤ書12章5節)
 
アンネ・フランクの日記は、1944年8月1日で終わっています。
そして、ちょうど73年前の今日1994年8月4日、アンネとその家族8人はゲシュタポドイツ国家秘密警察)によって捕らえられました。一家アウシュビッツに送られ、その後マルゴーとアンネの姉妹はベルゲン=ベンゼル強制収容所に移され、翌年、2〜3月に亡くなりました。唯一生き残ったのは父親一人だけでした。
アンネの日記」は彼女の13から15歳にかけての出来事が書かれています。当時のユダヤ人迫害下における<隠れ家>での生活はもとより、多感な年頃の好き嫌い、親に対する嫌悪感と愛情、怒りなどが書かれています。
アンネが殺されたのは、間違いなくナチズムの罪によるものです。それは間違いありません。同時に、人間の人種差別と残忍さは、かくも恐ろしい虐殺を組織的に行うのです。
神がこの少女を通して何をなそうとされたのか、私にはわかりません。
しかし、その犠牲となった少女の日記は、協力者によって保管され、生還した父親に引き渡され、世界中の人々に読み継がれるものとなったのです。
 
この夏休み、ぜひとも読んでください。
(読む場合には、必ず「増補新訂版」を読むこと。)
 
※参考:アンネ・フランク著、深町眞理子訳『アンネの日記ー増補新訂版』文藝春秋社、2003年

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二重人格

「まことに、あなたのさとしは私の喜び、(神は)私の相談相手です。」(詩篇119篇24節)
 
私は、自分の本当の気持ちを口にしたことがあるだろうか。
本当の自分は、いつものような明るくて、軽薄で、にぎやかな自分ではない。
もう一人の私は、深く物思いに沈んでいる。
けっこう真面目なことも考えているし(そんなこと友だちにはとても言えないけど)、心の奥底に潜んでいる自分のゆがんでいる姿にも嫌気がさしている。
どうしたらこの世界から戦争がなくなるかなんて、私が考えてどうなることでもないのに、気がつくとノートにいろんなことを書いている。
学校では、下品な冗談にも大笑いしている自分がいる。
私は二重人格者だ。
 
神さまに祈ってごらん。なんでも話して、相談してごらん。
その時、どちらの自分が相談しているかな。

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どんな心の私にでも届く声がある。

「(愛は)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(Ⅰコリント13:7)
 
 
私は、すべてに我慢されている。私は耐え忍ばれている。
しかし、私はすべてにおいて信じられている。すべてにおいて期待されている。
それに応えることのできる保証なんか私にはどこにもないのに。
 
愛は、私を急がせず、苛立たせず、追い詰めず、これっぽっちも責めず、重荷を負わせない。
しかし、何かを始めさせる力、やめさせる力、植える力、引き抜く力、達成させる力、諦めさせる力がそこにある。
 
成長するとか、前に進むとか、そういうことがとにかくダルくなった時でも、私の心に届く声がそこにある。
 
あまりうまく言えない。

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真理を喜ぶ。

「(愛は)不正を喜ばずに真理を喜びます。」(Ⅰコリント13:6)
 
心から何でも話せる親友が、
もし、悪いことに手を染めているとしたらあなたはどうする?
もし、人を見下すような、ちょっとイヤな奴になって来たらあなたはどうする?
 
驚き、悲しみ、そしてその親友を悪いことから「取り戻したい」と思うだろうか。
「目をさませよ!」と、絶交されることを覚悟で忠告するだろうか。
 
その親友がもとに戻った時、あなたは共に真理を喜ぶ者となります。
あなたは悪いものを退けて、良いものを取り戻したのです。

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