こころパン

私は口からのパンだけでは生きられない。心にもパンが欲しい。

「神のことば」を取り返せ。

Luke 8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、 道ばたに落ちた種があった。 すると、 人に踏みつけられ、 空の鳥がそれを食べてしまった。
Luke 8:12 道ばたに落ちるとは、 こういう人たちのことです。 みことばを聞いたが、 あとから悪魔が来て、 彼らが信じて救われることのないように、 その人たちの心から、 みことばを持ち去ってしまうのです。
 
注)「種」とは神の救いのみことばのことです。
 
イエスさまのたとえ話。今日から4回連続。
 
多くの人に、神さまに対する「漠然とした拒絶」がある。
「神を信じること」に怖さや恥を感じている。
それで、
「世界には、『神』よりも大切なことがいくらでもある」
と避けてしまう。
 
この拒絶、怖さ、恥って何だろう。
たぶんそれは、「宗教は怖い」「違う自分になりそう」という恐れから出てくるのかもしれない。
 
その恐れを除くには、これは自分自身に対して語られている、とその人が気付くこと。
そして、みことばが作りだす、刺激的で平安な空間に浸かることだ。
 
持ち去られたみことばを取り返せ。

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イエスさまに会えるところへ。

“  さて、 大ぜいの人の群れが集まり、 また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、 イエスはたとえを用いて話された。”
(Luke 8:4 SHINKAI)
 
主イエスのところには、大勢の人が、方々の町から集まって来た。
今で言えば、ある人は自転車で、電車で、バスを乗り継いで。
ある人は青春18切符で。新幹線で。
別な人は飛行機。ある人はエコノミー、ある者はビジネスクラスで。
皆、キリストを直接見て、話を聞くためにやってくる。そのためのコストも労も惜しまずに。
 
教会は、そこはイエスさまがおられるところだ。
礼拝でも、人々との交わりの中でも。
だからみんな、教会へ行こう。
牧師もしっかりとお話をして、イエスさまのお姿を示していかねばね。

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本物と偽物の見分け方

聞いても実行しない人は、 土台なしで地面に家を建てた人に似ています。 川の水が押し寄せると、 家は一ぺんに倒れてしまい、 そのこわれ方はひどいものとなりました。 」”
(Luke 6:48–49 SHINKAI)

 

本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンの見分け方。
両方とも、礼拝には必ず出席する、ちゃんとみんなの前で祈れる、奉仕も一生懸命。
外からでは見分けがつかない。大差ない。両方とも本物に見える。
ではどうやって見分けるのか。

 

それは、みことばを実行しているかどうかだ。
礼拝でみことばを聞いて、それを自宅でも、学校、職場でも実行しているかだ。

 

聞いても実行していない人の信仰は、「洪水」(試練)の時にそのもろさがわかる。

 

偽物は、試練にうろたえ、悲しみ、神を呪いさえするようになる。
その変わりようはひどい。
しかし本物の信仰はビクともしない。

みことばを聞いて、
人に対して誇るためではなく、主ご自身の喜びのために、生きる。
人には見えない生活全般にまで、心の隅まで、神の民にふさわしくなりますように。

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クリスチャンの原点

“自分を愛する者を愛したからといって、 あなたがたに何の良いところがあるでしょう。 罪人たちでさえ、 自分を愛する者を愛しています。”
(Luke 6:32 SHINKAI)
 
自分を愛してくれる人を愛し、自分に良くしてくれる人に良いことをする。
「わたしの弟子ではなくても、そんなことは皆やっている」
とイエスさまはおっしゃる。
イエスさまは、自分を傷つける者を愛し、
自分に良くないことをする人に、良いことをしなさいと言われる。
 
無理無理無理
私の心は悲鳴をあげる。
当然だ。私にはそんな愛も力もない。あるもんか。
そんな愛などいらないとさえ思う。
 
ただこのことを聖書から思い巡らしてみなさい。
そうすればすぐに心に愛が溢れる、なんてことは今は言わない。
でも、私たちはすべて、いつもここから始めなければならない。
 
私は、イエスさまの十字架を余計なお世話と思い、
和解の手に噛みつき、
与えようとされたものを地面に叩き落とした。
父なる神はあなたの悪さに怒り新党だった。
 
しかし
主イエスが私の代わりに神の罰を受けてくださった。十字架で。
このイエスさまを救い主と信じた私は神の子となった。
 
今思うことは、
愛さなかった時、イエスさまは私を愛してくださった。命がけで。
拒んでいた時、イエスさまは私を受け入れてくださった。何事もなかったように。
奪っていた時に、イエスさまは私に与えてくださった。とても気前よく。
だから今の私がいる。
 

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やってみる

“話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、 網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。 私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。 」”
(Luke 5:4–5 SHINKAI)
 
 
「あ、それ無理」「ムダだよ」「だるい」「疲れてるので」「予定があるので」
 
でも「おことばどおり、網をおろして」みたら、なんと大漁だった。
 
自分自身はムダだと思っても、主イエスが言われれるならば、それをやってみよう。
 
やってみて人生が変わった「シモン」は世界中にいる。

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「わがはいは『それ』である」

“「キリスト・イエスは、 罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、 まことであり、 そのまま受け入れるに値するものです。 私はその罪人のかしらです。”
(1 Timothy 1:15 SHINKAI)
 
92歳でクリスチャンの奥さまを天に送られ、95歳で信仰を告白し、97歳で洗礼を受けられ、100歳で天に召された方の葬儀に出席した。
お生まれになったのは、第一次世界大戦中だ。二次ではなく、一次だ。
その人は「あなたはご自分が罪人であることを告白しますか」と問われた時、病床でこう告白したそうである。
 
「わがはいは『それ』である」  (注:「わがはい」(吾輩)=「私」)
 
自分が罪人であることの明確な断言。
肉のいのちの厳粛なる否定。
たとえ1000年生きて努力しても、決して超えることのできない人間の真実。
 
しかしその告白は「キリスト・イエスは、 罪人を救うためにこの世に来られた」というみことばを土台とする。
 
キリストのみが、罪人を永遠に生かす。
究極的に私たちの人格は、キリストによってのみ造られ、永遠に失われることはない。
 

「彼」の後に続け!

“わたしは門です。 だれでも、 わたしを通って入るなら、 救われます。 また安らかに出入りし、 牧草を見つけます。”
(John 10:9 SHINKAI)
 
※「わたし」=イエス・キリスト
 
正面の「門」から入ってくるのは誰だ。
柵を乗り越えて入ってくるのは、強盗だ。
裏口から入るのは、泥棒だ。
真の羊飼いだけが正面の門から入ってくる。
 
あなたは、その羊飼いに続いてその門に入る。
どんなに狭くとも、見つけにくくとも、その羊飼いがいれば大丈夫だ。
彼の後に続け。
彼の後に続け。

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